インタビュー

2024.03.01

コロナ禍でUターン。ローカル起業した若者の「未来を創る」まちづくり

今回は、塩谷のまちづくりをお伝えするにあたって欠かせない人物をご紹介します。

「けーちゃん」のニックネームで地域の人に親しまれ、常に町内外を動き回る彼は一体何をして、どんなことを考えているのでしょうか。

学生時代から塩谷の未来についてまで、同い年同士のフランクな会話でお届けします。

高塚 桂太(こうつか けいた)

1997年生まれ、塩谷町出身。
大学を卒業後、2020 年に塩谷町へUターン。
地元でのまちづくり活動を始め、2022年にコミュニティースペース"Step One"をオープン。
2023年から一般社団法人ローカルキャンバスの代表を務める。
趣味はサウナ、旅行、釣り。

聞き手・小松原啓加(こまつばらひろか)

1997年生まれ、小山市出身。
2023年から塩谷町の地域おこし協力隊に着任。
まちの人を取材し発信するライターとして活動中。

サッカー漬けの生活から英語を武器に海外へ

けーちゃんは塩谷町で生まれ育ったんだよね。小さい頃はどんな子どもだった?

野生児だったな(笑)
秘密基地をつくったり、竹で弓矢を作ったり、山に落とし穴を掘ってなんか獲れるかなってやってみたり。
すぐにどっかいって自然の中で遊んでいました。

それが今の趣味の釣りにもつながってるんだね。
サッカーにハマったのは中学校から?

サッカーは小学校2年生ぐらいからかな。
親父がサッカーのコーチで、兄貴もやってた影響で始めました。
塩谷中でもサッカー部に入って、当時ありがたいことに俺らの世代が強くて、県3位までいったのよ。

県3位はすごいね。もう「部活命」みたいな感じだったの?

間違いない(笑)本当に部活しかしてなかった。勉強は苦手だったね…。

そうだったんだ。じゃあそのまま高校でもサッカー漬けの生活?

そうだね、サッカーの特待生として矢板中央高校に行って…。
ただ、高校で最初のターニングポイントがあったんだ。

中学では「サッカーでもう俺に勝てるやつはいねえぞ(笑)」みたいな感じだったんだけど、矢板中央は全国から強い選手が集まるし、やっぱり自分のレベルを目の当たりにするわけよ。

で、だんだん自分の強みのサッカーで周りに勝てなくなってきて、「このままでいいのか」って悩み始めたの。
それで、サッカー以外の武器を自分で作らないとって考えてたときに、「英語ができるようになりたい」って、ふと思った。

「ふと」なんだ。なんで英語だったんだろうね。

まあ、単純にかっけえなって思いもあったし(笑)
新しい武器を英語で作っていこうと思ったんだよね。

そこから高校の英語の先生に「1日1時間だけください」ってお願いして、マンツーマンで英語の勉強を始めて。

へええ、先生優しい。毎日付き合ってくれたんだ。

そう。ただ、3年間サッカーをやりきるっていう目標もあったから部活も続けて。

結局公式戦には出れなかったけど、部員が何百人といる中で登録選手25人のうちに入ることができました。

同時に英語でも実力をつけて、っていう高校生活を送ってたかな。

高校サッカーって3年生も年明けまでやるよね?長い部活人生…。

長かった。
センター試験は全国(高校サッカー選手権大会)と被ってて無理だったから、試合が終わってから私立大を受験して一般で入ったんだ。
「次のステージに行きます」と親に感謝を伝えてサッカーは高校で卒業して。

じゃあ大学では何をしてたの?

もともと大学では色々チャレンジしようって決めてて。

もっと英語を伸ばしたいし、世界に行ってみたいってモチベーションもあったから、
バックパッカーの旅をしたり、
外国人に居酒屋を案内するツアーを勝手に立ち上げたり、
大学のALTの先生を捕まえて一緒にランチしたりして英語を話しまくったの。

それで学内の試験に合格して、3年生のときに1年間フィリピンに交換留学できました。

おめでとうございます。フィリピンでも何かやってたの?

学校の授業の他にドイツのNGO団体に所属して、いわゆるスラム街に住んでいる子どもたちに英語を教えるプログラムに関わっていました。

コロナ禍で地元に戻って始めた「お金にならないこと」

フィリピン留学から帰ってきたのが4年生の頭ぐらい。

もう就活時期は逃しちゃってるから、どうしようか先輩に相談したら、外務省管轄の独立行政法人をすすめられて、そこに内定をもらいまして。

仕事としては、タイに赴任して日本語教育の普及に携わるって内容だったんだけど。

おお〜楽しそうだ。

内定取れた。よし、次はタイだとワクワクしてたら、2020年のコロナパンデミックがバコンと来ました。

バコンと。私たちがちょうど大学を卒業した年だったよね。

そう。その4月に内定先から国内待機の連絡が来て。タイに行ける目途がつかない状態がずっと続いたんだよね。

都内のゲストハウスで住み込みのバイトをして待ってたんだけど、なかなか状況は回復しないってところで、一旦塩谷に帰ろうと思って、帰ってきた。

それはなんだろう。休もうと思ったのか、どういう気持ちで帰ってきたの?

もう、何かをやりたい。待ってるんじゃなくて。
自分でもタイはもう厳しくない?って半分諦めてて。

「自分って本当は何をやりたいんだっけ。自分にできることってなんだろう」ってよく考えたときに、大学のゼミで起業やローカルスタートアップを学んでたなと。

そこから地方で何かできるかも思って色々調べ始めて、じゃあ塩谷町がどういう風になっているか一回見てみようと思って帰ってきた。それが2020年の夏前くらいかな。

なるほど。すると地元に帰ってきて3年半くらい経つんだね。
帰ってきてから具体的にどんなことをしていましたか?

最初はコロナで同じように帰ってきてた同級生と、東古屋区周辺の地域活性化しようぜって流れになって。
テントサウナをやったり、まちおこし活動をするうちに色んな町内外の人たちとつながれて。

その頃から矢板のTAKIBI(コミュニティースペース)を利用していたのがきっかけで、「塩谷町にもコミュニティースペース作りたいです!」って言いまくってたら巡り合わせで今の物件に出会ったんだよね。
応援してくれた町の人が資材や機械を貸してくれて。そこは本当に感謝しています。

それで自分たちでDIYしたんだ!
どのくらいでできたの?

改修期間は3ヵ月ぐらいかな。
この設立で関わってくれたのは多分100人ぐらいいると思うわ。
2022年の2月にオープンして、みんなで一歩踏み出そうぜってことで名前は”Step One”。

それからここを拠点にして活動していったんだね。
今けーちゃんは一般社団法人「ローカルキャンバス」の代表だけど、それになる前は何をやってたの?

ローカルキャンバスになる前は、ざっくり言うと任意団体としてお金にならないことをやりまくりました(笑)

地域会議を開いたり、
サッカーのパブリックビューイングをしたり、
スポンサーを募ってビアガーデンのイベントを開催したり。

お金にならないことを3年間近くもよく続けられたね…。

タイ行きを諦めたとしても東京に戻る機会はあったと思うんだけど、どうして塩谷に残り続けたの?

大きく分けると2つあって、一つ目は応援してくれる地域の人たちの声があったってところ。
「残ってほしい」って声から人のあたたかさを感じて、その人たちのために何かやりたいって思いになった。

もう一つが、自分の仕事で地域を面白くしたい気持ちがあるってところ。
クリエイティブなことが好きだから、自分で何かやりたい思いがずっとあって。
で、仕事って会社に就職する以外にも自分で作れるじゃんとずっと思っていて。僕としてはもっとそのバリエーションを増やしたかった。

それで2023年の4月にまちづくり会社として自分で「ローカルキャンバス」を立てたんだね。
この一年で行った事業について教えてください。

この一年に関しては、塩谷町役場から受託した事業と、観光事業をやりました。

役場とは地域おこし協力隊の伴走支援や関係人口の創出、高校生の地域定着促進事業を一緒にやって。

観光の方は観光庁の補助事業で、鬼怒川を使ってインバウンド向けのサウナコンテンツを作りました。

あとは空き家改修かな。一棟貸しの宿泊施設にして、その周辺エリアで面白いことを集中的にやる「村」づくりを始めようと思ってて。

今年度は目の前の事業で手いっぱいだったから、来年度は基礎をちゃんとつくって足元を固めたいです。

「やりたい!」をもっと言える、チャレンジしやすい塩谷町に

塩谷という地域をフィールドにしていて、改めて塩谷町の魅力や、けーちゃんなりの好きなところを教えてほしいです。

「人」ですね。
めちゃくちゃ熱いし想いが強いんだけど、その伝え方が上手くなかったり、不器用な人が多い。そこに人情味があると思っていて、だから好きになる。

なるほど、わかる気がします。人間らしいんだね。

人間味があるところが魅力だけど、表現の仕方が上手くないのは課題だと思うし。だから、僕らの世代が入っていかないといけない。

普段から仕事をする上で意識していることはありますか?

僕は未来の話をするようにしています。
「これやったら面白いでしょ」みたいな、自分と地域の人がワクワクすることをどれだけ作れるかを普段から意識していて、そうやって10年後、20年後の未来を模索しながらつくる仕事をしたいなと思っています。

未来の話が出たけど、けーちゃんは塩谷をどんなまちにしていきたいですか?

チャレンジしやすいまち。
本来自分がやりたかったことを押し殺して生活している人って一定数いると思ってて。
自分がやりたいことをしているときってやっぱり楽しいし、その「楽しい」に一歩踏み出すのがチャレンジだと思ってます。

だからまち全体としてチャレンジする人を受け入れる土壌をつくりたいし、自分の価値観を大切にして暮らせるまちにしたいです。

それは帰ってきた当初から思ってたの?

思ってた。自分がチャレンジするタイプだから(笑)

地域で僕の立ち位置としては、第一線でずっと裸踊りをしている面白い人、みたいな。
それを見て面白そうだなと思った人が集まってきて、一緒に踊り始めるっていうのがムーブメントになると思ってる。

そのムーブメントはもう起こり始めてるよね!

うん。それをどれだけもっと拡大できるかが僕の「巻き込む」力にかかってるし、次のステージかな。

高塚桂太君の次のステージを楽しみにしています。
最後に、この記事を読む人に伝えたいことはありますか?

そうですね…まちづくりの仕事に沿って言うと、「やりたい!」をみんなもっと発言しようぜってすごく言いたくて。

「この年齢だから無理」とか「経験がない」とかじゃなくて、 心にあるものを言うことで絶対それに合うアドバイスをもらえて実現に近づくと思っていて。

なのでもっと気軽に「やりたい」を発言できる場を作りたいし、そういうコミュニケーションが広がったら良いなと思っています。

 

次から次へと出てくる想いやアイディアを聞いているうちに、いつの間にか時間が経っていました。

2024年には27歳になる私たちの世代。

塩谷を引っ張っていく熱い若者の一人、高塚桂太君にこれからも目が離せません。

 


(2024年2月1日取材 地域おこし協力隊 小松原 啓加)